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「自分は弱い」と思うことは正しいか?

「チョッと違う考え方」というブログで書いていたことの二つ目。


人は、しばしば、自分は「弱い人間だ」と判断を下し、その判断にとらわれ、自分を更に苦しめる。尺度もなく「弱い」「強い」と判断を下すことは、実は錯覚にすぎないのだけれど。


1.「弱い」「強い」など、無いと同じ


人は、自分は「弱い」、だからダメなんだ、あの人のように「強く」ならないといけない、などと考えたりする。


私は、「弱い」「強い」という考えは、一切捨て去るのがいいと思っている。
これらの言葉は、実際には、殆ど意味が無いと思っている。


2.尺度がなければ、「弱い」も「強い」も無い


そもそも、「弱い」「強い」は、全て、ある特定の尺度があって初めて言えること、ということに気付くのが得策だ。


例えば、「100メートル走」という尺度の中で「強い」「弱い」といった具合。尺度があって、初めて「強い」「弱い」と判断することができる。


このような明確な尺度がないところでは、漠然と「弱い」「強い」ということにしかならない。


でも、漠然と「弱い」「強い」というのは、「本当に」あるいは「真の意味で」「強い」「弱い」という事ではない。


3.人は錯覚しているだけ


人は、一般に、このような明確な尺度を考える事なく、自分自身を「弱い」「強い」と判断してしまう。残念ながら。


しかし、これは、まさしく決め付けである。


そして、悪いことに、人は、それにとらわれる。
自分で勝手に決めつけただけなのに、「自分は弱い」と思い込んでしまう。


そして、そのとらわれが、自分を苦しめる。


しかも、その「弱い」「強い」という判断が、さも、絶対的な判断のように錯覚してしまう。
自分は、「絶対的に弱い」という具合に。


「絶対的に弱い」なんて、あり得ない。
そんな、概念など、この世に存在しない。


4.決め付けても何の得にもならない


別に、自分自身で、そのようなことを決めてしまう必要なんて、どこにあるのか?と思う。


しかも、先に述べたとおり、「弱い」「強い」は、絶対的・普遍的な判断ではなくて、あくまでも、ある明確な尺度がある時に初めて判断可能な、「相対的なもの」に過ぎない。


そのような尺度の外では、「弱い」「強い」は全く無関係である。
どうでもいいことなのである。


「弱い」「強い」という判断を自分で下すのは、殆ど実益がないので(だから、あまり意味がない)、私は、そのようには思わないことにしている。


考えそうになっても、シャットアウトするようにしている。



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プロフィール

Author:中学留学
日本の保育園と公立小に通った少年Ryuが首都圏中学受験をトライするも、今ひとつ受験勉強に身が入らず、中学からアメリカB州のA校に留学。父(私)から見た中学留学観察の記録と、私の頭に想起した諸々の考え

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